田中 繁男
展転社 刊
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この記事は2007/7/11に作成しました。
物語 仁徳天皇〈下〉
田中 繁男
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仁徳天皇(にんとくてんのう)は応神天皇の第四子である。
応神天皇の崩御の前年(応神天皇40年。神功皇后摂政49年。己巳。西暦369年)春3月、百済の頼みで、百済のために新羅を撃った。
これに感謝し、さらに誼を深めたい百済は、その年(己巳。晋の太和4年。西暦369年)のうちに七支刀を作り、翌年(応神天皇の崩御の年)使いを立て、百済の世子(太子)より倭(日本)の太子へ七支刀を贈ろうとした。が、応神天皇崩御の直後、菟道稚郎子(うぢのわきいらっこ)太子は、太子位を拝辞していたので贈ることはできなかった。
それで、その翌年にも百済使は来朝した。が、依然として太子位は空位であり、空しく持ち帰った。その翌年(摂政52年。壬申。西暦372年)今度は密かに情報をえていたからであろう、贈ることができた。この七支刀は今に石上神宮に伝えられ、国宝となっている。
この太子が翌年に即位した仁徳天皇である(元年。摂政53年。癸酉。西暦373年)。すでに仁徳天皇は壮年であったが、神功皇后の摂政は続 いていった。内政も税を免除するなど多難な時代であったが、対外的にも、高句麗の使いが来朝するなど、酷しい時代であり、外交方面に経験の深い神功皇后の存在は不可欠であったからである。
神功皇后は半島の問題に深入りしないよう努めていたようであったが、仁徳天皇17年(摂政69年。己丑。西暦389年)に神功皇后が崩御すると、たちまち百済は支援を要請してきたのであろう、翌々年の19年(辛卯。西暦391年)、倭(日本)は半島へ派兵し、高句麗と対抗した。
この半島への派兵は『日本書紀』には記されていないが、高句麗の広開土王碑文に《辛卯年、倭は海を渡ってきて、百済や新羅などを臣民とした》などと刻まれている。その8年後(己亥。西暦399年)に仁徳天皇は崩御するが、仁徳天皇朝は27年(『日本書紀』では87年)と考えるところより、この辛卯は仁徳天皇の治世下、すなわち仁徳天皇の19年のこ ととなるわけである。
『万葉集』にも引かれるほど、仁徳天皇と磐之媛皇后との間の話は興味深いが、磐之媛所生の4皇子のうち、3皇子までが天皇となっていく。
物語 仁徳天皇〈上〉
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物語 仁徳天皇〈下〉
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